佐々木かをりのwin-win 素敵な人に会いました、聞きました

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松井久子さん

映画監督・脚本家・プロデューサー

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新藤監督と会わなければ、今の自分はいない

佐々木

しっかり勉強して早稲田に入学。演劇をして、ライターになって、俳優さんに出会ってマネージャーになり、そのあとテレビのプロデュースをされていますが、テレビという理由はなんですか。

松井

テレビがよかったというよりも、その頃自分が働いているテリトリーが、テレビに一番近かった。いつも「自分の目指した道を無理矢理切り開く」ってタイプではないですから。若い頃に熱狂した演劇は、もう新劇の大劇団も解散していたり、なんとなく魅力がなくなっていた。映画界はと言えば、私自身映画の勉強もしていないし、女性は入れてもらえない、みたいなところもあって。それでドラマをつくるならテレビの場が最も現実的だった。

佐々木

その後から、「やっぱり映画に行きたい」っていう気持ちが高まった。

松井

私の1本目の映画『ユキエ』は、自分の考えたテレビドラマの企画が通らなかったから、どこへ行っても断られたから、なんですね。確かに視聴率ということで言ったら、もうこの題材は無理なんだろうな、と。だったら岩波ホールで掛かるような、小さくても良心的な映画にしてみたい…と思いました。

それで、3年かけて製作資金を集めて、映画ができるとなったとき、新藤監督にシナリオを書いていただいたんです。そこで新藤さんから「自分で監督しなさい」って言われなければ…あの時、新藤監督と出会わなければ、「今の自分はいないんだな」と思うと、本当に不思議。なんだか怖い気がする程です。

実際監督をやってみて、特にこの3本目で一番感じたことですが、作っているとき「私が本当にやりたかったのは、これなんだ」って心から思えたんです。

47歳のときに『ユキエ』の企画を考えて、それで3年間、今と同じように資金集めをした。それで監督をするっていう実際の行為をしたのが50歳。50歳で、ようやく自分が心から打ち込める仕事に出会えた、という感じです。私の略歴を見ると、何か自分が明確な目標を持っていて、そこに辿り着くまでに、一生懸命階段を昇って行った、みたいに見られるかもしれないけど、全然そういうのではないんですね。

佐々木

「やりたい」と思うことがあって、その思いに忠実に行動していると、道が開ける。人と出会う。またそれを一生懸命やっていると、また自分の思いがけない役回りも含めて、「ここでやってごらん」って言われたりしながら、やってみる。すると「もしかしたら私、このために生まれてきたんじゃないかしら?」というような喜びがある。そういう繰り返しなんですね。

松井

でも、もしかすると、ただ自分の中で、意識しないようにしていただけなのかもしれない。「本当にやりたいことは言っちゃいけない」っていうか。「私、監督をやりたい」なんて言ったら、周りからは……。

佐々木

どうして、そんなことを思ったんですか。

松井

そう思いながら、ずっと来ています。そういう世代なのか、キャラクターなのか。

佐々木

でも、ご自身では本当は分かっていた。

松井

意識下で分かっていたんじゃないかなって。今、こうなってみるとね。でも明確に、「そのためにはどうしよう」と考えて、自ら積極的に動くことはしなかった。いつも木の実が熟すまでは、黙って目の前のことに没頭していた、という感じでしょうか。

佐々木

ガッツはあったに違いないっていうことですね。そうじゃないと、ここまで熱心には来なかった。


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