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はい、私が警備局長のときは「九州・沖縄サミット」だったんです。それまで日本におけるサミットは3回開かれていて、私は、それぞれのサミット警備に携わってきたという経緯があって…。
ということは、4回すべてのサミット警備を?
はい。つまり「第1回東京サミット」(1979年6月)、「第2回東京サミット」(1986年5月)、「第3回東京サミット」(1993年7月)があって、そして最後が、「九州・沖縄サミット」(2000年7月)です。このほか、日本では、「北海道・洞爺湖サミット」(2008年7月)が開催されていますが、これは私の退官後です。
「第1回東京サミット」のとき、私は警察庁の課長補佐で、国際テロ対策の担当責任者をやっていて、「第2回東京サミット」のときは、警察庁から、東京の警視庁に出向して警備第1課長をしていて警視庁サミット警備対策委員会の事務局の責任者をやっていまして、「第3回東京サミット」のときは、同じく警視庁(東京)で、警備部長をしていて、東京(警視庁)の警備活動の責任者をしていました。4回目のサミットは、そのころの各国の流れでもあったのですが、首都でやるのはやめて、どこか地方に出てゆったりした雰囲気の中で首脳が語り合おうということになったのです。いろんなところが候補に挙がったけど、最終的には首脳会議は沖縄で落ち着きました。ちなみに、サミット財相会議は福岡県、外相会議は宮崎県に決まりました。そのとき私は、全国の警察を総括指揮する警察庁の警備局長という立場だったわけです。
沖縄は、また、東京と違う仕組みが必要ですよね。
沖縄県警というのは2500人ぐらいの警察組織なんですけれども、たくさんある離島の治安維持も継続させなければいけないし、沖縄本島でも一般刑事犯罪や暴力団の取り締まりあり、交通取り締まりもあり…で、県警だけで警備をやることは到底不可能なんです。ということは、全国から機動隊を集めなければいけないんです。で、どれぐらいの人数が必要かをもちろん細かく積算していくんですけれども、約2万人の警察官を全国から沖縄県警に派遣したんです。2万人というのは大阪府警と同じ規模なんです。だから沖縄に突然大阪府警が誕生した、という感じなんですよ。
そうすると、2500人規模の県警の本部長、この人は優秀な人材でしたが、いくら優秀でも2万人の部下を掌握するというのは並大抵ではないんです。ですから、掌握できるようなシステムを私のほうで作って、そこに沖縄県警の優秀な人材、プラス大阪府警など全国の主たる警察から警備の大ベテランの人材を、沖縄県警本部長の下に補佐的に付けて…といったサミット開催時の警備指揮体制と警備計画を余裕をもって作り始めるんです。そして、サミット本番の開催日のちょうど1年前の日の猛暑の中、日本で唯一の亜熱帯気候の沖縄に、全国の機動隊幹部を集めるんです。そこで言うんです。「いいですか?1年後に、この暑さの中であなたたちの隊員が仕事をするんですよ」と。そうなると、この幹部たちが各都道府県警に戻って、「暑さ対策を考えろ」と部下に指示する、という話になってくるんです。そこで1年かけて、いろんなことをやるんです。