佐々木かをりのwin-win 素敵な人に会いました、聞きました

153

荒井由希子さん

国際労働機関(ILO)ジュネーブ本部
多国籍企業局 シニア・スペシャリスト

講演依頼について問い合わせをする

実は最初の仕事は、世界銀行で教育プロジェクト

佐々木

ペルーで、「これだ! この輝きのために私は生きるんだ」と思ってから、今日までの道筋を伺いたいのですが、まずは経済を学習しよう、ということになった。

荒井

法律に重ねて、経済を勉強して、副専攻としてラテンアメリカ地域の政治経済や社会問題など総合的な勉強もしました。それがジョンズホプキンス大学の大学院でのことです。それから、児童労働は教育の問題とかなり密接につながっているということもあって、実は最初の仕事は、ILOに入る前に、世界銀行で教育プロジェクトについているんです。

佐々木

世界銀行に入ったとさらっとおっしゃるけれど、そんなに簡単には入れないんじゃないですか?

荒井

いい機会を頂戴したかもしれませんね。たまたまワシントンで勉強していたこともあり、メキシコのプロジェクトのマネージャーさんが、メキシコの教育の専門家ないし経験のある人を探していて、たまたま私がメキシコの教育省にリサーチャーで一夏入っていたことを、人づてに知って、それで、来ないかと。ある日、家に帰ったら、マネージャーさんから電話にメッセージが入っていて、メールも来ていて、「何だろう?」と。

佐々木

世界銀行から。

荒井

はい。それで始まった3年間です。キャリアの第一歩で自分の希望通り、ラテンアメリカの教育に携われたという意味では、とても勉強になったし、ハッピーでした。すばらしい方々に囲まれて。私は20代の半ばで比較的若かったし、何もかも非常に刺激的でした。当時学んだ様々なスキルは、今でも非常に役に立ってます。

佐々木

ペルーで子どもたちの目を見たって言っているのが95~6年ぐらいなのかな。

荒井

はい、1995年末です。だから約3年後の出来事ですね。

佐々木

ペルーで子どもたちの目を見て「これだ!」と思って、ジョンズホプキンス大学で、じゃあ経済をやろう、ラテンを勉強しようと思って、勉強が終わったら、本当にラテンの教育の仕事にポーンと来て、3年後には就いているというのは、明確なビジョンと強いコミットメントがあったということかもしれない。

荒井

中南米の教育に関わりたい、というのは、結構クリアでした。ただ、どこの国のどの機関・組織で働こうとかいうのは、あまり「ここだ!」というのはなかったんです。ただ、自分の見ているものはずっと変わらないし、やりたいことが実現できる場所を追い求めた結果、この15年ほどを振り返ると、たまたまスタートが国際機関で、それ以来ずっと国際機関で働いていることになります。

実は、世界銀行の前に、大学院生時代には米州開発銀行という、また違う国際機関でインターンをしていました。たぶんラテンアメリカの仕事をしたい日本人というのは珍しい存在で、なかなか地域に関連する仕事を見つけるのは難しかったんです。日本の機関でラテンアメリカの仕事をするというのでも、よかったんですけど、なかなかなかった。または、アメリカにいる私にはそういう情報がなかった。で、アメリカのワシントンD.C.にいたということもあり世界銀行と米州開発銀行という、両方、ワシントンベースの国際機関で、ラテンアメリカの経済社会開発に関わる「最初の一歩」となる仕事をすることになりました。この駆け出しの頃から、出張の多い毎日でした。結構飛び回っていたので、今でも、こっちの国に行って、戻って、また1週間後にこっちの国に飛んで、というワークスケジュールには、あまり抵抗感がない。かなりモバイルな生活、そのまま今でも続いてます。


  • 5 / 25


バックナンバー

過去の一覧

ページの先頭へ