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98年からの3年で、どのぐらい出張の数があったんですか?
当時は金融危機がラテンアメリカを襲い、経済危機への緊急レスポンスということで、コロンビア、エクアドル、コスタリカだけでも年に3回ずつぐらいは行っていました。1回の出張が2~3週間と長いんです。あと、何カ国かお手伝いしてたので、結果的に一年のうち半分ぐらいは、ワシントンにいない感じですね。
3ヵ国に3回ずつ行っただけで9回でしょう。それに2週間ずつ行っていたら、ほとんど1年が終わっちゃうものね。だから、その他の出張を入れていくと、ワシントンD.C.にいるのが短いぐらいですよね。
「由希ちゃん、いつもいないね」とよく言われました。フィールド、つまり途上国の現場での仕事に関わるのがベストだと思っていたので、意欲的に取り組みました。体力もありましたし、楽しく勉強してた感じ。それが20代の後半です。
時代は違うけど、私は20代の半ば過ぎにニュースステーションのレポーターになって、30ヵ国ぐらいに飛んで、危ないところに行っていたけど、別に疲れもしないし、飛行機に何度、何時間乗っても平気でした。寝るところがなくても、水道がなくても、電気がなくても平気という、たぶん同じような体力とか時期なんじゃないかな。20代の中盤から後半。
でも実は佐々木さんの、いわゆるフロンティア的な取材とは反対に、あの頃のミッション(出張)の多くは、実はファイブスターとか、すごくいいホテルに泊まってたんです。今でも覚えています、最初に行ったメキシコのミッション。私は、「貧困だ、子どもだ」、とやる気満々なのに、素晴らしい5つ星の豪華なホテルに泊まったんです。
で、部屋に入って、窓を開けたら、噴水がシャーッときれいで、花が咲いていて、マリアッチを奏でるおじさんたちがいて、“Here I am!”って来たけど「あれ?」「何かが違う……」。ベッドの上にペタンと座って、「私、何しに来たんだろう?」と。何ともいえない、悲しいような、突き落とされたような気持ちになったのが、一番最初の出張経験なんです。 そのときにマネージャーさんに、「何で世銀は、こういう、すごいところに泊まるの?」と聞いたら、「セキュリティのためだよ」と言われました。確かに治安も悪いし、いろんな資料を持っているわけで、それはそうか、と納得したような、しないような感じだったんですが、それが最初の、ある意味、壁ですよね。
で、子どもに対する支援とか、教育、社会保障とか、社会セクターのお仕事に関わらせていただいて、勉強することも多かった。ただ、エデュケーションとか、子どもへの支援とかいうのに、マクロのレベルからの介入だったので、肝心な子どもが見えない。「やっぱりフィールドに行かなきゃ」という焦りがすごくあって、出張という形でフィールドと本部の間を行ったり来たりするのではなく、自分の身をフィールドに置いてみたい。というときに、たまたまILOのヤングプロフェッショナル制度の選抜のアナウンスが出ていることを知人が教えてくれて、「これはいいな」と。