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会議番号:3534 開催期間 2019年03月08日- 03月15日
災害列島の日本ですから、災害にあったという人は多いと思うのですが、「子どもの時の被災体験」と限定すると、イエスと答える人は2割弱ということでした。私自身も、子どもの時と限定するとノーですね。それでも、3歳の唯一の記憶は、夜中に近くの映画館が燃える火事があり、父親におんぶされ、逃げる支度をしている場面で、夜空を焦がす炎が瞼に焼き付いています。 みなさんからもいろいろな体験が寄せられましたが、「シンゴパパ」さんの七夕豪雨(1974年)、「ナカサワ」さんの宮城県沖地震(1978年)、「こはく」さんの長野県西部地震(1984年)、「Tomoko_C」さんの北海道・奥尻沖地震(1993年、北海道南西沖地震)などは、いずれも大災害で、多くの人の記憶に残っていると思います。「シンゴパパ」さんは七夕豪雨のときのことを「40年くらい経っても鮮明に覚えています」と語っています。私は当時、静岡支局の記者で、滝のような雨が落ちるなか土砂崩れの現場に取材にいったり、同僚の家が川の氾濫で危ないというので様子を見に行ったり、参院選の投開票日だったので選挙の記事を書いたり、大忙しだった思い出があります。 おとなは、全体の状況の中で危険度を判断しますから、震度3ぐらいならたいしたことはないと考えますが、子どもは自分の周りだけがすべてですから、ガタガタという音とともに大きな揺れを体験すれば、その記憶はいつまでも残ると思います。「Tomoko_C」さんの北海道・奥尻沖地震以来、「揺れには敏感になった」と言います。「こはく」さんは、長野県西部地震で、「机の下に隠れてみたものの机ごと滑るように揺れて」という体験をしたそうです。そういう時に子どもがいちばん聞きたいのは「大丈夫だよ」という親など周りのおとなの声でしょうね。「ナカサワ」さんは、宮城県沖地震のあとの生活で、「子どもの私たちに不自由さ不安を感じさせずにいてくれた両親に感謝」と述べています。子どもの不安を取り除こうとされたご両親は立派ですね。 「真打ち」さんは、井戸に転落した経験があるそうで、浸水しながら長時間、発見されなかった孤独感が「大人への不信感として後の人生に影響を及ぼした」とあります。ある種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)かもしれませんね。「忘れっぽい天使」さんは、集中豪雨の経験があり、通学していた小学校は自衛隊の宿営地となり、「これがつい先日まで通っていた自分の学校なのか?」と、不思議な気持ちになった、と語っています。昨日までの世界と全く違う世界が現出したことは、今日の連続でない明日もあるということで、子どもにとってはショックだったと思います。 東日本大震災の被災地では、「2次的PTSD」という言葉を聞きます。震災時は幼児で、災害の記憶はないが、小学校に行く年齢になって、自分の周りで恐ろしい出来事が起きていたことを知り、PTSDになってしまうのだそうです。また、いま小学校の低学年の子どもで、いたずらなどの問題行動を起こす児童が何人もいて、家庭環境を調べると、震災直後の家庭が生活の再建に必死で、親が子どもに愛情を注ぐ時間がなかった、という例が多いと言います。心理学で言う「愛着障害」ですね。幼児期で震災の記憶がない子どもでも、のちに影響が出るというのは驚きでした。 被災した子どもたちにどんな言葉をかけたらいいのか、なかなか言葉が出てこない、というのが本当のところでしょうね。「ユリイカ」さんは、「子どもたちには生きて欲しいという祈りにも似た願い」と述べています。私たちのNPOは、2012年の春に、親を震災でなくした子どもたち約20人をTDL旅行に連れていきましたが、震災のことは何も言えませんでした。「カリブの海賊」に誘導したら、流れる水を怖がって姉にしがみついて離れない子どもがいて、「しまった」と思った出来事がありました。 宮城県石巻市の大川小学校では、大震災で74名の児童がなくなりました。遺族が学校の責任を問うた裁判では、津波に対する事前の対応が不十分だったなどとして遺族側が勝訴、いま最高裁で争われています。ひるがえって、自分たちの地域社会をみて、子どもたちを災害から守るという点で、社会はしっかりと対応できているでしょうか。みなさんの考えはいかがでしょうか。ご意見をお寄せください。★高成田議長の過去の円卓会議より・移民の受け入れは、賛成ですか?・東北産の農林水産物。食べていますか?・東日本大震災から4年。風化したのでしょうか?(2015年3月)
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